「初一念」および 「純な心」について(上)
今回は森田療法の「純な心」について、毎日の実践のご参考になるよう、わかりやすく書いてみたいと思います。
行動アプローチと感情アプローチ
最初にひとつお断りしておきたいのは、私はよく「純な心」を森田療法の重要なポイントとして取りあげますが、それを「森田療法の行動の部分をないがしろにする」というふうにとるかたがいらっしゃるようです。
それはある意味、100か0か、黒か白かの二極化の考え方です。 森田療法の「行動部分」を強調する考え方はわかりやすく、それこそが森田療法と思われやすい。それで私は感情部分も強調しただけです。決して行動部分を否定したわけではありません。
森田療法は、非常に大きな世界観が背景にあり、行動か感情かというふうに二つに分けられるものでもありません。
考えてみればとても学びがいのある思想なのです。
さて、なぜ私が感情の部分を強調し始めたかということを説明します。
神経質症状を乗り越えるためには、実践行動は大変重要なことです。それを積み重ねていくと、確かに神経症(不安障害)の症状は楽になります。
しかし、神経質症になるかたには、根強い「かくあるべし」(思想の矛盾)があり、また自分を特別に思う感覚もあります。
症状のときには、その特別感がマイナスの方向に向いて、「私は世界一ダメな人間だ」という感覚になっています。
ところが実践が進むうちに、それがひっくり返ることがあります。これも二極化の思考です。
少し仕事ができるようになり、実際のものごとが進んでいくと、今度はプラスの方に特別感を覚え「私はできる、素晴らしい」という感覚を持つようになることがあります。これは、プロセスとして仕方ないことで、普通は徐々に現実認識ができてきますが、時としてそのままの状態にとどまってしまう人がいます。
これは、実践行動のみを森田療法ととらえて、以前と比較してずいぶんできるようになった自分を「治った」と勘違いすることから起きてきます。
また一方で、いくら行動して仕事ができるようになっても、まだまだ不全感に悩まされるというかたもいます。
ずっと劣等感にさいなまれたまま、必死に実践を続けていくけれど、何か苦しい。でも森田療法では「苦しいまま、あるがまま」と言われる。
これが森田療法で言う回復ということなのだろうか、というかたです。
つまりこれは、自身の感情部分を抑圧し、「かくあるべし」を持ち続けたまま、ただただ実践した結果として起こることのように、私には思えたのです。
感情は無視するべきものでも、抑えつけるべきものでもなく、ただそこにあるもの。
しかし、神経質症状を持つ方は、自身の感情に恐怖を持っています。自分の感情が自分を破壊してしまうと思うほどの恐怖です。
ですから「とにかく実践」という考え方は、ある意味都合のよいものなのです。
感情を忘れられるかもしれないと思うからです。
しかし、感情を豊かに感じることは、森田療法において重要な要素なのです。
自然な感情をそのまま持ちこたえることができていれば、それが自分の直観を養うことになります。
そして感情が揺れたり、迷ったり、葛藤を持ったりすることによって、周囲に適応して臨機応変な行動をとれるようになります。
純な心、森田正馬の例
あまり抽象的にならないように、まず森田正馬の書いている例から見ていきましょう。
「私たちがあやまって皿を落として砕いたときに、思わずこれを取り上げて、つぎ合わせてみることがある。これは惜しいことをしたという純な心である。つぎ合わせたとて、こわれたあとではもとのようになるはずはない、バカげたことである、というのは悪智である。この純な心そのままであったときには、次の時間には、この残念の心も念頭から離れるのであるが、他日再び皿などのこわれやすい物を取り扱う場合に、電光のように前の砕いたときの経験が再現して、その物の置き方、取り扱い方に対する適切な工夫ができるようになる。これに反して、皿を割ったときに、主人に対してどうすればよいか、人から笑われはしないか、などを考えるときには、悪智はそれからそれへと続いて、いつまでも念頭から離れない」
『神経質の本態と療法』より
私たちが掃除をしているとき、誰かが大切にしているお皿を落として割ってしまった。そのときのハッとした感覚、大切なお皿が砕けているのを見た時のゾッとする感じや残念さ、そして「何とかできないだろうか」と皿をとりあげてみたりする。これが「純な心」「初一念」です。
自分の心は皿のほうにある。
ところがすぐに「割れたものはしかたがない」「どう後始末をしよう」「この不注意を誰かに見とがめられるのではないか」と第二念、三念が湧いてくる。そうすると心はお皿を割ったときの「純な心」から遠く離れていってしまうのです。
森田正馬は、この最初の「純な心」「初一念」に気づこうと言っているのです。そしてそこにとどまるということを言っています。
なぜなら神経症の症状は、この「第二念」から起こってくることが多いからです。
ですからある意味、自分はどんな「第二念」を起こすのかということを自覚することも大切になってくるのかもしれません。
症状別の初一念、第二念
さて、これは心のなかの非常に微妙な働きなので、このあたりを理解するのは難しいことかもしれません。
少しおおざっぱに単純化していますが、以下に症状を例にとって考えてみたいと思います。
たとえば、電車のなかで呼吸困難発作やパニック発作を起こす。
これは強烈な死の恐怖です。これは、敏感な人なら誰でも経験したことがあるかもしれません。これが初一念です。
ところが、発作のときにこれを打ち消す第二念が湧いてきて、「まさか自分がこんなところで倒れるわけにはいかない」「醜態をさらさないようになんとかしなくては」「二度とこの不安を感じたくない」と、この恐怖感をやりくりしようとするなら、それは精神交互作用になって、次に電車に乗ったときに「またああなったらどうしよう」と予期不安を起こし、結果としてこの不安感が症状というものになってしまうのです。
強迫神経症の場合も同じです。強迫のかたは特に、何かを感じると瞬間的に反対のことを想起するという「拮抗作用」が強いので、波のように二念、二念が湧いてきます。
「鍵を閉めた」「あれ?閉めたかな?」(不安)「もう一度確認しなくては」(不安の打消し)という堂々巡りが始まります。不安を打ち消して自分の気持ちがすっきりすることを目指すのです。
森田正馬の言う「一波をもって一波を消さんと欲す。千波万波こもごも起こる」という状態です。
対人恐怖の場合は、例えば友人と話していたとき、何か言い間違いをする。恥ずかしい。そのときに「わあ、恥ずかしい」と素直に言えれば、それは笑い話で終わります。
ところが、そこで「恥をかいた。もう笑われないように知的なところを見せなくては」とか「二度と同じような間違いをしないように気をつけよう」というと、これが二念、三念になってきます。
そして「対人恐怖」という症状になってくるのです。
ここまで挙げた例は三つとも最初の不安や恥ずかしさの部分では、自然なことなのです。これが「感情の事実」「純な心」「初一念」です。それだけならまったく症状とは縁遠い。
ところがこれに対して二念、三念で、打ち消そう、何とかしようと思うところから、まったく逆に不安や恥ずかしさが強化されるわけです。
それは「思想の矛盾」を生む行為でもあるわけです。結局、不可能な努力をしているわけですから。
ここで神経症のかたは「それなら打ち消さなければいいのか」といって、二念、三念を消そうと頭のなかで努力を始めてしまいます。
しかし、もう「症状」になってしまっているときには、そんな努力はまた精神交互作用を強化するだけです。どうすることもできない。頭のなかでのやりくりでは何も解決しないのです。
森田療法の鉄則は、症状に直接アプローチしないことです。
ここでは、このあるがままの感情に、それを打ち消す二念、三念をかぶせていくという心のからくりが、神経症のかたには誰でもあるということだけ理解してください。
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