自欺と自覚(3)

森田療法の言葉を安易にマニュアル化しない

マニュアル森田の危険性

 森田療法というのは、ごく微妙な人間の感情の動きを語っている考え方ですから、ことばで表現するのがとてもむずかしい。
 だから、森田正馬はよく具体例を使って説明しています。
 
 この森田療法を自学するときに一番気をつけなければならないことは、観念的な思考をする私たちが、観念や標語的なものを「森田理論」と取り違えることです。
 何かを簡略なことばでマニュアル化するのは、私たちが「学校教育」で学んできたやり方です。
 しかしその『学校教育』を森田正馬はこんなことばで批判しています。

 日本人は「説教」を「教育」だと思い違えている部分があるようです。

 先にあげた「人のためにつくす」も、大事なことばかもしれませんが、それを自分のなかで標語にして、その標語に現実をあてはめるようになると事情が少し違ってきます。

 それは「観念」を「現実」にあてはめようとした神経質症の根底にあるからくり「思想の矛盾」を繰り返すことになるのです。森田療法は目の前の現実にいかに臨機に対応していくか、そしてそのことによって「自分」の殼のなかから抜け出す方法、周囲に適応して、自分を生き生きさせていく方法を、教えているのです。
 これを自分のなかで観念的標語に変えてしまったら、森田療法の意味がなくなるのです。

答えはひとつではない

ひとつ簡単な例をあげてみましょう。学校などでよく子どもに「電車で年とった人が立っていたら、席を譲りましょう」ということを教えられます。

 さてこの標語を実践するとき、多分いろいろな困難が出てくるでしょう。まず、相手が「年寄り」なのかどうか、判断に困るときがある。自分を「年寄り」と思っていない人に席を讓ったら、いやな顔をされるかもしれない。あるいは、「席を譲れ」と言わんばかりに目の前に来られると、意地でも寝たふりをしたくなる。こちらが死ぬほど疲れていて、座っていたいときはどうしたらいいのか?…世の中には「時と場合」が何百通りもあるのです。 
それに応じた心の動きもさまざまです。

 それをひとつの標語にあてはめようとしたら、かならず不自然なことになります。
 私たちはその場で、状況を見、周囲を見、四方八方に心を動かし、「純な心」で対応するしかないのです。そうやって対応していけば、心自体が自然に働いて、次々と適切な感じや身体の動きがでてくるのです。

 ところが、観念優位で育った人たちは、ここでまた間違うことがあります。「時と場合」すらマニュアル化しようとするのです。たとえば、目の前に立った人が年寄りかどうか判断できない場合はどうするか、自分が疲れているときはどうするか等など、たくさんの例をすべてカバーするマニュアルを作って安心しようとする。これではいつまでも「臨機応変」は学べません。

 ときとして、神経質の人は、細かいことにこだわりすぎて、全体を見失うことがあります。目の前の車実にその場その場で対応していくことによって、徐々に「全体」を見るということができてきます。
 「各論」ではなく、「全体」と「本質」とに視点をもっていくことで解決できる問題はたくさんあることでしょう。

 とにかく「森田」を、「かくあるべし森田」「マニュアル森田」にしてしまわないことが、私たちの留意すべきことなのです。
 森田正馬は、時と場合に応じて心や身体を自由自在に働かせる方法を、語っているのです。ともすれば、ひとつの感情や観念、規範や自分で作ったルール、理想像などにしがみつきがちな、私たちの「動きのない心」を、状況や環境、相手などに応じて自由に動いていくことのできる「自然な心」へと変える方法を語っているのです。

 臨機応変で切り抜けられた、マニュアル通りでなくてもなんとかできたという経験が、自分の自然な心への信頼感を生み、自分の力を信じるということにもつながっていくのです。

「安心できる場」を作る

森田入院療法は違う日常だった

 自分がそのままの自分でいるとき、魅力的であり、他人もそれを受け入れてくれると思えるためには、やはりそのままで受け入れられたという体験を持つことが重要です。

 森田療法の原法は入院療法ですが。森田は入院療法をただ臥褥と作業のためだけのセッティングとして作ったわけではありませんでした。彼は、患者を家族や周囲の環境から一時的に離すために、入院治療をしたのです。

 それは多分、患者を取り巻く厳しい目、患者に何かを強いてくる環境から切り離して、そういう価値観とは違う日常を作るためだったのでしょう。

 現在、そのような役割は、同じ仲間の集まる自助グループがになっているものでもあるのです。

 神経症の自助グループは、同じような性格の人が集まる場ですが、それは強みでもあり、弱みでもあります。

 このようなグループで注意しなければならないのは、お互いにきびしくなりすぎることです。症状にとらわれているとき、神経質の人はきびしい人間です。自分に対しても、他人に対してもきびしい。ときとして、私たちは仲間の目を気にして(それは自分の心の投射である部分も多いのです)自助グループにいてさえホッとできない自分を感じるのではないでしょうか。

 「差別観」を超えて

 考えてみましょう。たとえば人前であがることに恐怖を感じている人は、心の中で、人前であがる人を軽蔑していなかったでしょうか。
 手が震える自分に嫌悪を感じているうちは、そういうふうに震える人を見ると、「共感」どころか嫌悪を感じなかったでしょうか?
 私たちの心の奥底にはそういう「差別観」が潜んでいたということは自覚したいことです。

 こういう言い方自体が「きびしい」かなと自分で思いながらこの原稿を書いています。これも一つの自覚です。ですから、私は自分が「きびしいかもしれない」ことをいつも念頭におきながら、人とお話します。
 これが「自覚」です。
 そう思っていれば、人に意見を押しつけたり、人の話をさえぎったりせずに聞くことができるのではないかと思います。
 そういう足場にたってお話を聞いていたら、相手のことを簡単に「わかった」と思ったりせずに、いつまでも関心を持ちながら話を聞くことができるかなと思います。
 そうやっていると、そのうち、だんだんとその人の個性や魅力が見えてくるような気がします。ただの「症状を持っている人」「悩んでいる人」ではない、奥の深いその人の歴史や面白さ、それが個性として生き生きと立ち現れてくるのです。
 お互いがそんなふうに、そのままの自分を魅力的と思えるようになれば、自助グループは共感的で、優しい、「安全な場」になっていくように思うのです。

森田療法を深めるとはどういうことか

 森田正馬はよく、「ここではものごとの是非善悪を言わない」と言います。是非善悪の判断、どんな価値観で生きるかは、その人にまかされているのです。森田はただ、自分自身を「症状」のために無駄にせず、最大限に「生かしきる」方法を神経質者に教えたのだと、私は思うのです。
 「立派な人問になれ」などとは言っていません。

 では、森田療法を深めていくとは、どういうことなのでしょうか。
 あくまでも私の考え方ですが、それは、森田がよく言っていた「自覚」を深めるということに尽きるような気がします。それも座して考えているのではなく、経験のなかで、「気づいていく」というごくオーソドックスな方法です。
 これは、文字で書くと簡単ですが、けっこうむずかしいことです。症状や自分にとらわれているうちは、どんな経験をしても、それが「舞い上がり」(これも一時的にはいいのですが)や「自己嫌悪」や「反省」になって、自分を評価し、傷つける材料になってしまうことが多いからです。

 けれどもし、自然な自分でいることが一番楽だし、それで充分生きていけるのだということが経験できてくると、「自覚」が「自己嫌悪」と結びつくことも少なくなるでしょう。
 繰り返しになりますが、自分の自然な心の働きを信じ、自然な自分でいるときが一番魅力的だということを、信じましょう。

 なぜなら私たちは「人間」であり、すべての「人間」の心のなかは宇宙のように混沌とさまざまなものが入り混じっている場なのです。そんな広大な領域を価値批判で裁こうとすること自体、はなから無理なことです。
 それよりも、自分の「純な心」を感じ取り、その心に自分を預けていればいい。
 そうすれば私たちは、いつのまにか自由で自然で、周囲と調和した場に立っている自分に気づくことになるのです。

(完)
©岩田真理
(過去に「生活の発見」誌に掲載したものを改訂したエッセイです)