自欺と自覚(2)
自分を欺くとは?
自然なものを欠点と決めつける
けれど、神経質の人たちは、自分自身の力を信じられないゆえに簡単な方法に走りがちです。タイトルにもあるように「自分を欺(あざむ)く」ことです。
小心さ、自己顕示欲、虚栄心、嫉妬心、競争心、これらのものは、人間であるなら皆が持っている要素です。こんなものを人問の「欠点」「汚点」と考え、自分の心から追い払おうとしていたら、私たちは立つ瀬がありません。永遠に自己否定していなくてはならない。
なぜならこういう要素は死ぬまで私たちにつきまとうものだからです。特に「生の欲望」の強い神経質者は、こういうものを欠点として強く感じがちです。
これは人間の醜い部分でもなんでもない。自然に備わった心の働きの一部であるに過ぎないのです。
ただ「そういう部分が自分にあるけれど、あまりむき出しにすると恥ずかしい」ぐらいに思っていればいいのです。
こういうふうに、周囲のことを考え「むき出しにすると恥ずかしい」と思うのも自然な心で、森田療法ではこの部分を大事にします。それがあれば、自然に行動の調節がとれていくからです。
ところが、自分が「人間の醜い部分」と思っているものを嫌うあまり、これを否定し、自分のなかにそんなものはないというふうに決めつけ、自分を偽ると、話は違ってきます。
前記の「恥ずかしい」という部分が感じられないわけですから、行動の調節がとれなくなってきます。
森田正馬は言います。
「多くの場合に、自分の考え方とはちょうど反対になる。知恵が足りない人ほど、自分は知恵が多いように思っている。みなさんのうちにも、自分は意思薄弱であると思う人は、必ず意思薄弱ではない。自分は愚鈍であると思う人は知恵があり、かつ将来ますます知識の進歩する人であるから、安心してよろしい。これに反して、自分は頭がよい、読書でもなんでも、よく理解ができると思う人は、なかなかあてにならないから、十分心配するように心がけてください」(全集5-433頁)
森田の言っている「自分は頭がいい」と思っている人というのは、「自己受容」している人という意味ではありません。これは単純なナルシストであり、自覚が足りない人という意味だと思います。
欠点を否認している人は他人に厳しい
少し困るのは、そういう風に自分のなかの欠点と思う部分を恐怖して、否認したり、なるべく見ないようにしている人のほうが、えてして他人にひどく厳しいことです。
誰でも、他人を批判的に見ているときがあるでしょう。そんなとき、批判している相手の嫌いな部分は、自分が自分から隠したり、厳しく律している部分、無視している部分だったりすることがあります。
つまり、自分が自分を批判している部分は、自分が他人をそうやって裁いている部分でもあるのです。
「欲張っちゃいけない」と思っている人は、欲張りな人を見ると、卑しいと思うでしょう。自己顕示欲を醜いと思って抑制している人は、正々堂々と自己顕示している人を見れば、「あの人は自己顕示欲が強いからね」などと批判したくなります。いい悪いではなく、人間の心とはそういうものなのです。
自分のなかのいろいろな要素をただ認め(森田療法ではこれを「自覚」と言います/反省する必要はありません)それとうまくつきあっている人は、他人のなかにそういうものを見ても、ただありのままに見、適切に対応することができるでしょう。
だからこそ、よく言われるように、自分を信じられない人は他人も信じられない、自分を愛せない人は他人も愛せないのです。
どうも人間関係が深まらない、親友になれない、人間関係が表面的なところで終ってしまう、という人は、お互いを批判しがちなところ、相手をそのまま受け入れられないことにも原因があるのかもしれません。
神経症の「症状」の裏には、人も自分も何もかも「信じられない」という感覚があります。
これは、あるかたの言葉ですが、対人恐怖の人、強迫神経症の人は自分を信じられない、普通神経症(病気不安症)の人、不安神経症の人は自分の身体を信じられないのだそうです。
だから、「人間的であればいい」などという言葉には、多分心から納得はできないでしょう。
人間が人間的でそのままであれば、どっちのほうに行ってしまうかわからない。わがまま放題になり、好き勝手なことをして、他人に迷惑をかけ、あげくは周囲から除け者にされ、社会的敗者になる。そういう暗い未来像しか思い浮かびません。
しかし、そんなことはないのです、神経質性格であれば、自分を信じて、自分の自然にまかせていれば、きちんと周囲に適応していける、ただ自分の心の働きを信じて、それにまかせればいい。そして自覚を深め、自分を偽ることをやめればいい。そうすれば、私たちは初めて、人を愛し、人からも愛される人となるのです。
飾らなくても魅力的
森田療法の言葉を標語にしない
森田正馬の有名なことばがあります。
「およそ自分が善人として、周囲の人から認められるためには、人が自分に対して、気兼ねし遠慮しようが、うるさく面倒がろうが、人の迷惑はどうでもよいということになる。これに反して、人を気軽く便利に、幸せにするためには、自分が少々悪く思われ、間抜けと見下げられても、そんなことは、どうでもよいというふうに、大胆になれば、はじめて人からも愛され、善人ともなるのである。つまり自分で善人になろうとする理想主義は、私のいわゆる思想の矛盾で、反対の悪人になり、自分が悪人になれば、かえって善人になるのである」(全集5-205頁)
これは時々、間違って「人のためにつくす」という標語の根拠に使われたりする箇所です。
けれど、このことばは、まさに神経質者の特徴をつく鋭い洞察に裏打ちされています。森田が言っているのは、「人のためにつくせ」ということではなく、「自分を偽るな」ということなのです。
表面的なものを気にする人にとっては、「人の目」は鏡であり、その鏡に向かって一生懸命「優しい人」「いい人」「強い人」「完全な人」のポーズをとりたがります。でも、それが本当に相手のためになるのでしょうか。それはただ自分のためにやっていることではないかと、思いたくなるときもあるのです。
いい人に見えたいと思ってもかまわないのです。ただ、心のどこかで、自分のそういう傾向を自覚してさえいればいいのです。そうすれば、心の調節作用が働いて、肝心なときに、適切に本当に相手のためになる行動がとれるようになるのです。
精神医学の著述なので当然かもしれませんが、森田の著作には、「愛」ということばは、多くは出てきません。しかし、彼の言動を注意深く見てみると、彼がいかに周囲の人に対してたっぷり「愛情」を注いだ人であるかが読み取れます。
だからこそ、彼のところに入院した患者は、いくら厳しく叱られても、森田を慕い、敬愛したのでしょう。
彼はどちらかと言えば(いや、どちらかと言わなくても)変人で、愛想もない人だったようですが、自分を飾らず、自宅で患者の入院治療をするなかでも「ありのままの自分」「自然な自分」であることに徹していました。そういう彼の態度から、入院生たちは、人間は飾ることがなくても、そのままで十分魅力的だということを学んでいったのでしょう。