「初一念」および 「純な心」について(下)
二念、三念にひそむ「かくあるべし」
森田正馬は「純な心」を「素直な心」、「自然な人情」と言い換えています。
別に特殊な心でも美しい心でもなく、誰にでもある不安や悲しみ、恥ずかしさ、怒り。ただそれだけのことです。
そして前述しましたように、神経質の症状というものは、この素直な心を打ち消そうとするところから生まれてくる。 では、素直な心でいるとは、どんな状態でしょうか?
また前の例を使ってみましょう。
電車のなかで呼吸困難発作を起こし、ものすごい不安に襲われたとき、その不安のままでいるというのは、どういうことでしようか?
この場合、死の不安はイコール「病気ではないか」という不安ですから、それに従うということは、すぐに病院に行き、検査をするなり、診察してもらって対策をとるということです。現実的な対策です。検査して異常がなければこの不安はそのうち消え去るはずです。
では、強迫神経症の場合、鍵をかけたかどうかの不安、そこにとどまるとはどのようなことでしょう?
当然のことながら、「あれ?鍵がかかったかな?」と思ったら、誰もがやるようにもう一度ドアノブをひいてみる。
そうすれば、確実にかかっていることがわかる。それで終わりです。
対人恐怖の場合、言い間違えて恥ずかしいと思ったとき、「自分はどうも四文字熟語には弱いな。今日はちょっと勉強してみようか」となっていくなら、注意は四文字熟語のほうに行って、次に人にあったら自分を知的に見せよう、恥はかくまい、などという思考にはなっていきません。
どこが違うかと思われるかもしれませんが、違いはおわかりですね?
「純な心」「素直な心」のときには、自分の注意は「対象」に行っている。
対象とは、「自分の心臓」「鍵」「言い間違い」です。
最初の感じを打ち消すような二念、三念が湧くと心のなかはどうなっていくのでしょう。そのとき自分の気持ちは、自分の気分や感情に対してのやりくり、周囲への気がね、過去や未来への心配のほうに向いているのです。そして意識はどんどん「純な心」「感情の事実」から離れていってしまうのです。
(勘違いのないように注記しますが、誰でも何か感じたら二念、三念が湧いてくるのは当然です。それがどんなものかで、とらわれるかどうかの差が出てくるのではないかと思います)
では、このように「自分の素直な心を打ち消す二念、三念」が湧いてくるのはなぜでしょうか。
それは、自分のなかに根強い「こうでなくてはならない」「こうであってはならない」という「かくあるべし」(思想の矛盾)があるからです。どんな「かくあるべし」を持っているかは人それぞれ、千差万別です。
しかし、自分には強固な「かくあるべし」があると理解できたとしても、それは、長い時間をかけて、周囲の影響なども加わって育て上げてきたものですから、簡単に消し去れるものではありません。
森田療法の行動アプローチのなかで、自身の欲求にのつて行動をする経験を積み、世の中のことは自分の思い通りにならないものだ、自分の能力にも限りがあるのだと体得していく。そこから学んで「かくあるべし」から解放され、成熟していくことができれば、それはそれでいいと思います。
しかし「感情からのアプローチ」は、「かくあるべし」を崩していくために大切なものです。
森田療法の目指すもの
森田正馬が自身の治療で、神経質の人に体得してもらおうとしていたのは、ただ「行動」できるようになるだけではなく、複雑な状況・環境のなかでも、その状況を観察し、自分の感じから学び、判断し、臨機応変に行動できることだったのだと思います。
つまりこれは「自立していく」ということです。
周囲の思惑、人の目、世間の慣習に惑わされず、自分が判断し選択して、結果の責任は自分で負って生きていくということです。
そのような自分の基盤になるのが、「感情の自然」を受け入れる、つまり「純な心」に気づくことです。そして自分の感じを信じることです。
感情と行動は別物なのですから、感じただけで窮地に陥ることはあり得ない。
自分の感情は自分を壊さないと信じることです。
前にあげたお皿の例でも言われているように、自然な感情にまかせておけば、理性でいちいち予防策を講じなくても、心は臨機応変に状況に対応してくれるのです。
その繰り返しによって、感じが育ち、自信を獲得することができるのです。
自信は経験や成功体験によって育つわけではありません。
そんなことを待っていたらいつまでたっても自信など獲得できない。ただ、周囲との比較や、人の評価から離れ、自分の感情の事実を「それでいいのだ」と認めること。そしてそれに拠って立つこと。
そこから「自然な人間としての自分」「あるがままの自分」「生かされている自分」への信頼が生まれてくるのです。
極端な言い方をすれば、自分の感情に「YES」と言えば、たった今、この瞬間から自分を信頼することができるのです。
平等観の獲得
先ほども言いましたが、森田のあげている「純な心」の具体例では、純な心でいるときには自分の感じ、感情は「対象」のほうに行き、自分のほうに戻ってきていないようです。これは「ものそのものになる」ということとも似ています。
道端で知らない花を見る。
そのときに「きれいだ」と思うそばから、「自分は本当にものを知らない。植物の名前にも詳しくない。なぜ今までここに花があることに気づかなかったんだろう。注意散漫だ……」というのが、症状に閉じ込められているときの考え方です。
純な心であれば、「きれいだ。何という花だろう。良い香りがする。アプリで調べてみようか。ずいぶん気温も下がってきて、これからは散歩に良い季節だ……」と、いろいろな連想で気持ちが流れていきます。
たとえば、歩きスマホをしている人にぶつかられてイラッとする。
そのときに「イライラするなあ。なんて奴だ。しかし、自分はなんだか今日はイライラしているな。もう少し余裕を持たなくては。会社に着く前にイライラしてどうする」というのが症状的第二念。
純な心であれば「危ないなあ。こんな混んでいるときに。全くスマホで何を見ているんだろう。そんなに見ていなくてはならない用事ってあるんだろうか。それともゲームでもしながら歩いているんだろうか」というふうに気持ちは流れます。
前者の場合、自分のイライラを問題視したために、結果としてイライラはずっと持続し続けるでしょう。
純な心のままでいた場合、そこから周囲に対しての好奇心や興味が生まれ、世界が広がっていきます。
最初から「森田療法は欲望にのって行動するもの」として「欲望探し」をするよりも、こんなふうに「純な心」で自由に周囲のことを感じながら、好奇心や興味を自分の生活に生かしていくことで、自然に生き生きとした生活が送れます。そのうちに、本当にやりたいことも見つかるのだと思います。
神経質の人は、症状に閉じ込められているときは、全く周囲に目が向きませんが、本当は好奇心も、興味も人一倍持っているほうですので、心が流れるようになってくれば.とても楽しい生活が送れます.
そしてもう一つ大事なことがあります。
それは、自分の「純な心」(感情の事実)を自分のものとして認めると、それは「人類共通」のものなのですから、自分が特別という考え方から徐々に脱することができるのです。
「我々は自分自身の正しい自覚ができる時には、そこに正しい事実を認識するのであるから、これは人間共通の心理であり、自分の病的あるいは特殊の心理でないということを知り、すなわち自分の心の内に、人間を共通に見るところの平等観というものが成立する」『森田正馬全集5巻』
そして、他者に対する共感というものが生まれてきます。
「およそ人の心を推測するに、最も重要なことは、まず自分の感じから出発することである」『全集5巻』
つまり「私は別に人にぶつかられてもイライラしません。イライラなんて抑えるのが当然でしょう」と思っている人は、イラついている人を見ても「人間ができていない」と思うだけで、「あれではつらいだろう。自分もイラつくことがあるよね」という共感は持てないのです。
「初一念ノート」の活用
さてこれで「純な心」と、それを打ち消す第二念のからくりは大体理解していただけたかと思います。
以前私は、「生き生き森田ワークショップ」というグループワークをやっていました。これは許容的な雰囲気のグループのなかで、自分たちの「純な心」に気づこうという趣旨のワークでした。
「許容的」な雰囲気というのが、とても重要なのです。
他の人が、自分の「純な心」を笑ったり、批判したりするのではないかと思ってしまうような場では、「純な心」探しはできません。
ですから、場をほぐすために、ワークの最初にゲームをやって遊んだりします。症状のことは直接には取り上げません。
この「生き生き森田ワークショップ」は以前、森田療法学会でもプレコングレスで時間をとって実演の場をいただいたことがあります。
さて、このなかでの工夫のひとつが「初一念ノート」です。
ワークの場では、なかなか純な心の体験は思い出せない。それで各人が小さなノートを常時携帯して、「あっ」と思ったときにそこに書きつける。(スマホを使ってもいいかもしれません)
症状真っ最中のときには、ほとんど気がつかないのですが、ただ道を歩いているだけでもいろいろなことが目の前に展開されているのです。
「空がきれい」「これは何の匂いだろう」「あの人の服装は妙だ」「あの人だかりは何だろう」「ここにこんな店があるんだ」等々。
部屋でテレビを見ているときでもいい。
「へえ、こんなことがあるんだ。面白い」「歴史のことはあまり知らなかったが、今度調べてみよう」「このドラマつまらないな」等々。
自分の感じたその「初一念」をノートに書きつけてみる。
そうやって「素直な心」に気づきそのままでいると、どんどん気持ちは流れ、自分の気分をやりくりするだけの世界にはとどまっていません。世界が広がっていくのです。
興味がおありなら、この「初一念ノート」を試してみてください。
森田療法の世界は、堅苦しいものではありません。
森田正馬自身はよく「努力」という言葉を使いますので、現代の感覚から「真面目に努力して立派な人になるのが目標」のように思いこまれることもあるのですが、それは全くの誤解だと思います。
森田療法はむしろ、神経症のときの「堅苦しさ」から抜け出すための考え方なのです。
狭い価値観から解放されて、自分の欲求を探しながら、一回限りの人生を自立して生きる。
その生き方は、あなたの自由でいいのです。
(完)
©岩田真理
(2016年「生活の発見」誌に掲載したものを改訂)