自欺と自覚(1)
「全体」こそが魅力的
部分を整えれば全体がよくなるでしょうか?
私たちは人と会おうというとき、鏡に向かい、身支度をととのえます。鏡のなかに映っている部分を一生懸命きれいにし、化粧をととのえ、髪をとかし、さあ出かけようと思います。
鏡のなかの自分がきれいだと、どこか安心します。ところが、鏡に映らない部分は、自分の意識にのぼることが少なくて、ずいぶんと無防備だったりします。
私たちには鏡に映らない部分、つまり自分には見えない部分がたくさんあります。横顔もあり、背中もあり、頭のてっぺんもあります。
しかし、そんなところまで気をつかっていたら、永遠に外には出られません。普通、私たちはどこかでその自分の無防備さを容認し、あきらめて外に出、人と接しているのです。
私はこの頃、森田神経症(不安障害)の症状というのは、この自分の無防備さを許すことができず、見えるところだけ一生懸命きれいにして、それで自分のすべてに満足を得ようとしているもののように思えてきました。つまり「部分」を整えることで、「全体」がパーフェクトになるという錯覚を持ち、矯正に必死になっている・・・そういうことです。
一見これは対人恐怖症(社交不安障害)だけの比喩に見えるかもしれませんが、どの症状の人もこのような部分を持っているようです。そして、神経症の人というのは、自分を偽るがゆえに、表面的な部分をとても重大視するようになってしまうのではないのでしょうか。
表面的なものを気にするのも、人間として自然なことです。気にして悪いわけでもありません。ただ、あまりにもその部分を重く見ると、それがどんどん「自分を偽る」ことを高じさせ、自分を苦しいところに追い詰めていくように思うのです。
他人はいつも私の全体を見ている
そう、神経症を生む根本にあるのは、「自分を偽る」ということなのではないでしょうか。森田正馬は、これを「自欺(じぎ)」と言います。
「自分は五尺一寸と正直に自認しようとすれば、それではなんだか心細い、少なくとも五尺三寸くらいには思いたい。人前で固くなる・気が小さい・小人だ・試合のときは足の震えるものなど、そのまま・あるがままに考えることは、なんだか浮かぶ瀬のないような気がして苦しい。もっと気を大きく・朗らかにすれば、一寸のものも、三寸に伸び上がり、小人でもいくらか、君子らしくなるかもしれない、というはかない考えが頭に浮かんでくる。そこでいろいろの小細工を工夫して、臭いものに蓋(ふた)をし、我と我が心を欺いて自欺ということにもなる」(森田正馬全集5-600頁)
私はときどき、『いい人』に見られたいと思っている自分に気がつきます。その人のためになることをしようというのではなく、相手に『いい人』に見られればいい、相手に好かれさえすればいい、という考えになってしまうのです。本当に相手のことを考えていない自分です。
とかく私たちは、「他人の視線」あるいは「自分を裁く自分の視線」という鏡を前に、自分のなりたい人間を演じてしまうことが多いのです。けれど、鏡に映らない自分のほうが人の目に触れる機会は多いのです。
私たちは、鏡に映した部分がきれいであれば、映らない部分もきれいだと思いたいのでしょう。無防備な部分は自分にはないと思いたいし、周囲だって自分の把握できるものであってほしいのです。
ところが、そんな思惑はたいていの場合、無駄です。なぜかといえば、他人から見たら、「私」はいつも「私の全体」だからなのです。他の人は一生懸命化粧したところだけ見てくれているわけではありません。
どんなに飾っても、装っても、偽っても、「私」は、「私の見られたい私」ではなく、私の気づかない部分も含めた『私の全体』として見られているのです。
つまり、私たちが「あるがままであろう」などと努力しなくても、他人にとって、私は「あるがままの私」なのです。
そして、なによりも一番大切にしなければならない認識は、その「私の全体」のほうが、磨き上げ、飾り上げた「私の部分」より、ずっと魅力的ということなのです。
なぜなら、小心だったり、無知だったり、少し「ワルい人」であっても、それもまた私たちの「一部」だし、それは「全体」のなかで微妙なスパイスの役割をしているのかもしれません。そういう部分を含めた「ちょっと面白く」て「すごく人間的」な人を私たちは愛するのであって、「アタシ、優しくていい人よ」とか「オレは完璧だ、優秀だ」と訴えている人が必ずしも愛されるわけではありません。
森田療法の創始者「森田正馬」を見てみましょう。彼こそは、「人間的であればこそ魅力的」という手本を、身をもって神経質の人に示した人ではないでしょうか。
そして、私たちが、「私が人間的であること、それを偽らないこと、それこそが魅力であり、それこそが自分の生を輝かせるものなのだ」という大前提を見失ってしまうとき、どんな森田療法的(と言われる)実践も、森田理論の学習も、ただの「修養主義」に成り下がってしまうのです。
「信じることができない」
神経症の「症状」にはそれなりの意味がある
人間的であること、あるがままであることが、ほんとうに魅力的なことなのだろうか? と、大半の神経質性格のかたは思うかもしれません。
その疑問は当然なことです。神経症に陥る人たちというのは、「人間」的であることを嫌い、「超人」を目ざした人ばかりだからです。
神経症の人の持っている理想は、なんともすごいものです。決して人より劣ったところのないヒト、誰からも好かれる優しいヒト、どんな状況でも動揺しない強いヒト。ドキドキしない心臓、完璧で健康な身体、バイ菌を寄せつけない環境、どんな災難も免れる強運、などなど。
もちろん人間は「超人」にはなれません。それを心のどこかで悟ったとき、その不安感に突き動かされて、弱い人間である自分を否定したくて、私たちは「症状」を生み出します。ただの「人間」であっては、つまり今のままの自分であっては人から馬鹿にされる、受け入れられない、この世の荒波を乗り切っていけない、この先暮らしていけない、そういう不安に襲われるからです。
ところが自分の全体を否定することは、自尊心が許さない。だから、自分の一部分をとりあげて、そこを矯正しようとするのでしょう。つまり「神経症」という苦しみは、それなりの必要があって発生してきたものといえます。
まず「理想の人間」「理想の身体」があり、それ以外のものを「醜い、汚い、不完全だ」と思う価値観が心の底にあるのです。
自分の心の働きを信じればいい
そのような、今の自分であってはいけない、超人でなければいけない、努力すれば完全な人になれるはずだという考え方は、きっと小さい頃、親から叩きこまれた観念だったり、環境のせいだったり、学校教育の成果(?)だったりするのでしょう。
こういう観念を持ってしまったのは、別に本人のせいではありません。「かくあるべし」は、生きてきた過程のどこかで、私たちの心に刷り込まれてきたものです。
かくあるべき規範に達しない自分を、私たちは信じることができません。人間は生涯、努力して「理想像」(それも超人的な理想像)に到達するものだ、そうしなければ他人は自分を認めてくれないという考え方をしていれば、今の自分は、いつも「発展途上人」で、発展を遂げるまで自分を厳しく見張っていなければならないし、ときには、自分を偽って、他人の視線の前で「完全」な人間のふりをしなくてはなりません。
ほんとうにそんな必要があるのでしょうか? 人間というものは、そんなに厳しく自分を律していなくてはならないほど、どうしようもないものなのでしょうか?
森田療法の考え方は違います。人間の心には、自然の微妙な働きがあって、自然にまかせていれば、その心の働きがその人の行動をうまく調節すると言っているのです。
ちょっと古めかしい表現ですが、森田正馬自身の言葉を引用してみましょう。
「ここの入院患者は、当然、森田を信頼してきているのであるから、森田が怖いのは当然であり、人情である。この純なる心そのままであると同時に、一方には、森田に接近し、話しを聴き、指導を受けたいという心が対立している。この怖くて逃げたいと、近づいて幸せを得たいという二つの心が、はっきりと相対立しているときに、われわれの行動は、微妙になり、臨機応変、最も適切になり、いわゆる不即不離の状態となるのである」(全集5-243頁)
「われわれの心の働きも、何か考えが起これば、必ずこれと反対の考えが起こって、自分の行いを調節していくものです」(全集4-38頁)
私たちは自分の心の働きを信じていいのです。そして、自分が嫌っている自分の心にも、「症状」にさえも「意味」があり、心の働きのなかで無駄なものは何ひとつないのです。
自分の「ここは好き」「ここは嫌い」「ここはよくない」…そんな声は心のなかから、始終聞こえてくるでしょう。そういう声が自分を批判しても、自分の「今、ここ」に目を向け、「今」目の前にあるものに工夫していけば、やがてこんな自分でもいろいろなことができるのだと、自分を信じられるようになることでしょう。
そして、平然と生活しているように見える他の人たちも同じような不安や悩みをかかえながら生きているのだということもわかってきます。人間にそれほど「差」はないのです。
森田療法は、何よりも、そのための技法を教えているのです。森田療法の伝えているとおりのことを理解して実践すれば、神経質性格の人は確実に変わっていけるのです。