森田療法における「流れ」と「調和」 (下)

「動き」に焦点を合わせた治療
このように森田療法は「動き」に焦点を合わせているが、その治療方法もまた精神の動きに重点を置いたものとなる。
本療法の着眼点は、まず第一にその複雑な精神の葛藤を去って、これを単純な苦痛または恐怖に還元するということにある
森田正馬「神経質の本態と療法」
人間にとって、恐怖や苦痛や不安があるのは自然なことである。
しかしこの単純な苫痛を、自ら複雑なものにしてしまったのが不安障害の人たちである。
だから森田療法は、この複雑な葛藤をなくして、これらの感情を自然なものに戻していくのである。
森田療法は決して否定的な感情だけをとり除くことを目的としない。否定的な感情も人間の自然性なので、取り去ることは不可能なのである。森田療法はただ、不安障害の人たちの心身を自然に戻していく。このための技法や介入法が、森田療法には散りばめられている。
それについては、今回は述べないが、どの技法から入っても到達するのはこの療法の核心にある「あるがまま」である。
「あるがまま」とは
「あるがまま」という森田療法の中心的概念も体得するのはそうむずかしくないが、言語ではとらえにくい。なぜなら、この「あるがまま」のなかにも、動きがあるからである。森田療法でいう「あるがまま」は決して静かな、安らかな境地ではない。森田博士はこれを次のような言葉で言いあらわしている。中国の古い詩句である。
心は万境に随って転ず、転ずるところ実に能く幽なり、流れに従って性を認得すれば、無喜又無憂なり
解説(―この場合は弱くなり切っているから、うまくいけば、僥倖のように喜び、悪くいけば、当然のことのように考えて、決して落胆しない。すなわち「心は万境に随って転じ」喜ぶときは喜び、憂は憂い、そのまま反応して、後に心が残らないから「無喜又無憂」と言うことになるのである。悪智・思想の矛盾の左右する余地がなくなるのである。根治である。―森田正馬による「全集5巻283頁」)
また、もうひとつ彼は「あるがまま」をこんな言葉で表している。
自然に服従し、境遇に柔順なれ
一見、消極的に見えるが、これは消極的・受動的な言葉ではない。
この「自然」とは人間性の自然である。たとえば感情は自然現象であり、自分でコントロールすることはできない。その感情の自然はそのまま感じながら、「境遇」つまり周囲の環境に臨機応変に対応していくということである。
神経症者は自然な感情という、逆らうことのできないものに立ち向かい、いつも敗北感を覚えるのだ。
本当にすべきことは、感情を否定することもなくそのままにして、ただ目の前のものごとに臨機応変に対応していくということである。
これが「あるがまま」の意味するところである。
人生の流れにのる
それはつまり、症状はありながら、それでも人生の流れにのるということである。そしてひとたび流れにのったとき、心は変化せざるを得ないのである。
そして森田博士は言う。
人生とは調和である
精神現象は、相対する(拮抗する)ものがバランスをとり、調和したときにベストの作用を発揮する。それは、自然現象もすべて同じである。
たとえば、私たちの心で相対するものとは、感情と理性、欲望と不安、衝動と抑制、意識と下意識などである。自然はもとより、人間のなかにある要素すべては調和することによって安定する。そしてまた、自分の内界と外界とは、いつでも調和を目指して動いているのである。
生きていくこととは、自分の心の流れにのり、自分の周囲の環境の流れにのり、それを調和させていくことである。
現実は曖昧なもの
たとえば、強迫神経症に悩む人の例を考えてみよう。強迫神経症の人たちは、自分の知性や理性、言葉ですべてを把握しつくそうとする人たちである。その人が求めているのは、完全な清潔さ、絶対的な安心、言葉による完璧な説明、保証された未来などである。この裏側には自分の感情に対する深い恐怖がある。強迫神経症の人たちは、安心や安定を求め、変化を恐れる。
しかし、私たちの目の前の現実には「完全」などあり得ない。現実は曖昧で、言葉や理性で把握しきれるものではない。一瞬先も予測はできない。
森田療法は彼らを予測できない曖昧な現実へと導く。
不安障害の人たちは自分が不安に思っている事柄へと恐怖突入し、自分の感情をそのまま感じながら、目の前の仕事や日常生活をこなしていくようにいわれる。
同時に自分の「純な心」を排除せず感じるように言われる。
そのような行動のなかで彼らは自分の感情を感じても大丈夫だということを理解する。
特に不安障害のような性格傾向であれば、内的な自然である感情が自分を破壊したり、のっとったりしてしまうことはあり得ない。
そして現実の世界のなかでは確実なものなどどこにもないこと、自分の行為の結果などわからないこと、自分自身がどう変化するかさえわからないこと、現実が曖昧なものであることを学ぶ。そしてそのような現実に耐えられるようになってくる。
それは不安障害の人たちが成熟していく、大人になっていくということである。
人間や自然に対する信頼
彼らは言葉や理性でないもの、言葉や知識を超えた経験を信頼できるようになる。自分の身体や、感情の自然に対する信頼を学ぶ。そのプロセスが直観を培っていく。
神経症者が直観から行動できるようにすること、それも森田の治療のゴールのひとつである。
そうやって人生の流れにのっていけば、やがてその動きのなかにこそ自分の心身のベストの状態が出現することを、彼らは体得していくのである。
森田療法は、このように、人間の精神の「動き」に焦点を合わせた治療法である。その理論はあくまで事実の観察に基づいた具体的なものである。
事実を基本にした治療法なのだ。
その根底にあるのは、自然に対する深い信頼である。森田博士は、人間もまた自然の一部であるならば、人間のなかには草木と同じように伸びようとする力があるに違いないと考えていた。
たとえ今は神経症という袋小路のなかに入っていようと、ひとたびまた人生の流れに戻れば、人はそこで経験し、成長していく。
心にもまた自然治癒力があるに違いない。
それが「あるがまま」という言葉にこめられた、彼の人間への信頼、自然への信頼なのである。
©2010 岩田真理 英文論文の草稿をリライト