人生の四季と森田療法(1)

人が生まれてから老いてゆくまでの道程は、四季の移り変わりにたとえられることがあります。

春はもちろん芽生えの季節、物事が始まり生い立つ季節です。私たちの人生で言えば、誕生から驚異的なスピードで人間らしくなっていく時期。思春期までの季節と言えます。夏はたとえて言えば青年期から壮年期。人生のなかで精力的に新しいことにチャレンジし、試行錯誤し、自分独自のものをつかみとる、そんな時期です。

そして秋は実りの季節。青年期に培ってきたものを収穫する時期です。冬は観照の季節。自分の人生の道筋を振り返り、得てきたものを次代に引き渡す「世代継承」という大事な役割もある時期です。

心理学の世界では、E.H.エリクソンが老年期までの人間の一般的な発達課題を時期別に考察しています。人間には各々の時期に達成すべき課題があるという説を唱えています。(詳細はエリクソンの発達課題をご参照ください)

さてそんなことをベースに置き、神経質者の人生と、森田療法が示唆する神経質のための生き方を考えてみようと思います。ここでお断りしておきますが、これから書く神経質者の人生は一般的な傾向であって、すべてのかたにあてはまるものでもありません。それはご了承ください。

神経質者の一般的な成育傾向

神経質者の成育歴については、規模の大きい研究はあまりされていませんが、ひとつ特筆すべき意見があります。北西憲二先生の「我執の病理」のなかの記述です。

いや私はそうではないとおっしゃるかたもいるとは思います。これはあくまでも一般的な傾向です。この過剰に期待されたという面が、神経質の自己中心性や人に認められたいという強い欲求、完全欲、そしてその反面としての不安と結びついていくのだと思います。

もうひとつ私見ですが、たくさんの神経質のかたとお会いし、その成育歴をお聞きしていると共通項があるような気がします。たいていの神経質者の親(養育者)が、コントロール過剰な傾向にあるということです。過剰にコントロールされて育った人が、それを引き継ぎ、そのコントロール欲求が症状形成の一因となるということも言えるように思っています。
前出の「我執の病理」には、もうひとつ神経質者の生育について特筆すべき一文があります。

その「黄金期」とは、たとえばリーダーシップがとれた、友達が多かった、勉強ができた、スポーツができた、人気があったなどのことです。それが、中学・高校など上級へ進むにつれて得意の時代から一転して自信を失い、劣等感にとらわれるようになるのです。私のお会いしている神経質のかたの多くにこれが当てはまるようです。そして「我執の病理」では、この黄金期の自分が神経症を克服したときに出現し、その後の生き方のヒントになると書かれています。

つまり神経質のかたは、この「黄金期」に表わされるように、強い自我を持っている。決してアイデンティティの確立に失敗した人ではないのです。しかし何らかの挫折により、今までの自信が一気に崩れ、劣等感となり、自己不信と不安とに過敏にとらわれるようになったのです。それは「身体への不信」(不安・普通タイプの神経症)「能力への不信」(強迫タイプの神経症)「魅力への不信」(対人タイプの神経症)という形で表れてくるといえるかもしれません。「劣等感と優越感」とは、意識するにしろしないにしろ、神経質者の課題でもあります。

思春期には誰でも劣等感にとらわれます。しかしそれがその後の神経症に結びつくのは「コントロール欲求」があるかないかに左右されるのではないでしょうか。

森田療法との関係

神経症的な状態は、敏感な人であれば思春期に誰でもが体験するような状態です。人前での発表にドキドキする、自分の容姿が気になるなどということを、思春期には多くの人が体験していると思います。ただたいていの人は一過性で終わるのですが、神経質のかたはある時期にそうなると、自分に注意を向ける状態が持続してしまう。

とても残念なことですが、ひとたび神経症状態に陥ると、その時期には、人生の他の課題に対する努力や興味が停滞してしまうのです。症状に夢中で、他の人たちが現実の中で体験を積み、試行錯誤して人と交流し、学んでいる時期を逸してしまう。たいていの神経質の人たちは、順調な人生の四季を経験するというより、思春期以降、症状にとらわれてどこかで停滞してしまったような時期があると思います。

森田療法の原法である入院療法は、そのような神経質者をもう一度育て直し、生き直させる意味があったのではないでしょうか。たとえて言えば「絶対臥褥」から起き上がることは「生まれ直し」を象徴することかもしれません。そして神経質者を迎える新しい家族は、父性的な森田正馬、母性的な森田の妻・久亥、兄弟とも言うべき同じ入院生たちです。

原家族から離れた新しい家族のなかで、彼らは今までしたことのない家事、雑事をこなし、職業に貴賤はない体験をし、自分に「できること」と「できないこと」を知り分けるのです。

臥褥から起き上がると、神経質者は今まで症状の裏に隠れていた「欲望」を意識します。そして周囲に対する「好奇心」も湧き出してきます。新しく目が開いたような体験です。作業が始まると、目の前の仕事をこなし「できる」「達成した」体験をし、工夫と観察の面白さを味わいます。心からの生き生きとした経験は、幼かった頃の自分の感覚と自信を呼び戻してくれます。症状に覆われていた視界が開け、新鮮な目で新たに世界を眺めることができるようになるのです。

「症状」という幻想の世界から「現実」の世界への復帰です。現実に適応していくなかで、今まで自分が信じていた抽象的な「理想」が自然に地に足のついたものになっていきます。それは神経質者の新しい成長と言えるかもしれません。

森田正馬は「人間の成長」をどう考えていたか

私たちは「大人になる」「成長する」ということを、漠然としか理解していません。その言葉の意味は各々によって異なっていると思います。では、森田博士は「成長」ということをどうとらえていたのでしょう。

森田全集第5巻には、神経質者の成長についての段階を追っての記述があります。

「生の躍動そのものになる」というのは、うらやましいほど素晴らしい言葉です。つまり気分に左右される「気分本位」ではなく、気分の評価で一喜一憂することなく「ものごと本位」になりきったときに、現実のなかで欲求が目覚め、自分の生命力が目覚めてくるということなのでしょう。

そして、こんな言葉もあります。 

これは少し私たちの概念とは異なる「成長」の考え方かもしれません。どちらかというと、私たちは難しい観念的なことを考えられることが知的進歩、成長であると考えがちではないでしょうか? しかし、森田博士は具体的にものを考えられることが進歩であると言っているのです。

(つづく)