コントロール欲求について (竹林公認心理師)

コントロールしようとは思っていないけれど
森田療法の解説では、よく「コントロール欲求」のことを言われますが、私たちの日常を考えてみると
「自分は、決してコントロールしようなどとは思っていない」というケースがたくさんあると思います。
神経症的な悩みは、このコントロールできない葛藤からくることが多いのですが、悩みとして感じていない場合でも、
実は無意識になにか変えられないものをコントロールしようとして、うまく行かずにイライラしたり、相手に当たったり、
挙句の果ては、無理やり説得しようとして言い合いになってしまうことがあります。
例えば、人が歳をとって頑なになってくることはよくある話ですが、特に自分の老いた親に対して、相手が考えていることを説明、
説得して正しい道にもっていこうとするケースです。
これは、もちろん良かれと思う気持ちの表れなのですが、相手の気持ちやプライドなどを受けとめるよりも、
相手の間違いを指摘して、無理やり論理やすじ道や、場合によっては社会常識などで説得しようとするものです。
老人は思考力もだんだん低下してきますから、間違いに陥らないように身内がしっかりと見守ってあげることは大切です。
法外な金額のものを売りつけられたり、なんで今さらというような買い物などをしてしまったり、色々なことがありますね。
そんな時に、判断の軌道修正を働きかけることは必要なのですが、正論で相手の考えを変えることを目指すと、
先はどのようにほとんどうまくいきません。
特に身内ですから、うまく行かない時は最後には決裂して言い合いになって、結局は声の人きい方が勝つということになるのです。
でも、この場合、ほとんどのかたが相手をコントロールしようなどとは思っていないのです。
そうではなくて、考え違いを指摘して、正してあげるよう説得しているだけと思っているのですね。
実は、まさしくこれが、相手を変えようとする働きかけなのであり、変えられないものを変えようとする努力なのです。
身内であれば、喧嘩したり言い負かしたりで済みますが、これは相手が変わったわけではなく、勝ち負けの世界で勝負しているだけです。では、これが他人や利害関係者だったらどうなるでしょう。
なんで相手は自分の思うとおりになってくれないのだろうと、葛藤で苦しみ、その内に自分を責めたり自己否定に陥ったりし始めます。
思うようにならないこと

会社などでも、このように周囲や特定の相手が思うようにならないことで、どんどん自分の気持ちを追い詰めてしまい、
抑うつ的な状態になって仕事に行けなくなってしまうこともよくあります。
無意識にコントロールしようとしてうまく行かない時は、心の中では、やはり他人は変えられるという思いがあるからなのでしょうか。
できないことや不可能なことを、できるようにしたり、可能なようにする努力ですね。
この努力こそが、「思想の矛盾」の根源であり、とらわれの始まりだと思います。しかし実はとらわれに陥るときは、
それができないことだという認識がなく、特に何も考えずに不可能を可能にしようとしているのです。
まさに、身についてしまった癖ですね。
ですから、自分ではコントロールしようなどとは思っていません。
ただ、なんでうまくいかないんだという気持ちで振りまわされている、それが苦しいといった状況でしょうか。
そんな時、自分はいったいどんな姿を、どんな状態を望んでいるんだろうと考えてみると良いでしょう。
苦しい時に、どうなったらこの苦しみが消えるだろうと、それも具体的に現実的に考えてみることです。
*いつも私を責めるあの人が、自分に対してもっと好意を持って接してくれたら。
*明日の会議で、緊張しないで発表することができたら。
*明日の訪問で会う顧客は、とても嫌な人で好きになれないけれど、会う時に不快感を持たずにいられたら。
*昔の嫌なことを思い出すたびに苫しくなるから、記憶の世界から消して思い出さないようにしたい。
*嫌なことを思い出したとしても、それで嫌な気分にならなければよい。
*勉強する時に、雑念を持たずにしっかりと本に集中できたら。
など次々と、言ってみれば「勝手な思い」が浮かんできますね。
この勝手な思いこそが、コントロールしようとしている目標の姿、自分の理想像です。
こう考えると、相手に対してだけでなく、実は自分自身をもコントロールしようとしている場合が、いかに多いことか分かります。
具体的にすると見えてくるとらわれの姿

このように自分の目標として描く姿を具体的に見ていくと、自分がしようとしていることが、可能なことなのか不可能なことなのか、
少しは分かりやすくなりませんか。
物事がうまくいかない時、思うようにならずに苦しい時に、なんでうまくいかないのと思う時には、このように具体的に現実面の、
自分がありたい姿を考えてみましょう。
具体的に実際面で考えれば考えるほど、とらわれの形が見えてきます。
*所詮、自分にはこんなことはできません!
*あの人とうまく楽しくつきあうのは、無理無理!
*私にはあの人を満足させることはできないし、相手が望むような人間にはなれません。
*大勢の人の前で緊張もしないで堂々と話をするなんて、私には絶対できない!
*蒸し暑い満員電車の中で、気分悪くならないなんて、無理に決まっている。
*人の輪の中で、いつも楽しく話題提供を続けるなんて、できるわけがない。
*外出する時に、鍵やガス栓を全く気しないなんて、私には不可能です。
こんなふうに、現実的な自分や、自分がいる状態を思い浮かべてみれば、そこには「だから自分はダメなんだ」といった自己否定感が出てくるより、「だからどうせできなくて当たり前」、「自分のできる最大限のことをやればよいし、自分なりの.工夫や知恵を働かせてみよう」ということになってくるわけです。
このように振り返って物事を広く見てみると、世の中にはなんとできないことが多いことかと思います。
そのできないことに対して、どれだけコントロールしようとしてきたことか。
コントロールしようとする気持ちの根底にあるのは、自分自身に対する強い思いです。
不安定な状態が不安だから、周囲が自分の描く姿の通りになって、微動だにしない安定感、絶対的な安堵感にたどり着きたいとの思いになるのです。
良く考えると、これは自分自身への過信に他なりません。
全てが可能になるとの過信を思い切って手放して、フワッと宙に浮きだしてみると、意外なことに、そこでは不安定の中の安定感が
しっかりと受け止めてくれます。
これこそが、変化流転を続ける自然な安定感であり、まさに「思想の矛盾」の解消です。
©竹林耕司「集まれ!勝手コラム」より
